横浜山手東部ってどんな所?

山手町 46番地
【山手町あれこれVOL.2】
2-B藤井成章
プロフィール
山手在住18年
山手東部町内会会員
もう7~8年前になるだろうか。
女房殿と二人でチェコのプラハに旅をした。
プラハは、14世紀神聖ローマ帝国の首都として栄えた街。
その美しさ故に、色々な賛辞が寄せられている。

街の美しさは兎も角、我々二人が何より刺激を受けたのは、ヤン・フスの存在。
1517年、ドイツ人マルチン・ルーテルが起こした宗教改革の事は、少年時代、西洋史で勉強した。
しかし、何とその100年程前にチェコに於いてカレル大学の総長ヤン・フスが火焙りの刑に処されながら、ローマ教会の腐敗に対し、反旗を翻していたとは。
そして彼の志は、フス派として生き残っている。
恥ずかしながら全く知らなかった。
表題「山手町46番地」には、まだ辿り着かないが、もう少しお付き合いの程を。

プラハの旅から帰国後程なく、女房殿が教会のお友達から興味ある話を聞いてきた。
「カトリック山手教会の御聖堂は、チェコ人建築家の設計なのですって」。
ところがその経緯について、もう一歩も二歩も掘り下げた話を教えていただくのが普通だと思うのだが、彼女はそれだけでケロッとしている。
これが極楽トンボ的生活を楽しんできた彼女の特徴。
そこで、教会活動に熱心な「Eさん」にお願いして、調べていただいた。
調査結果を要約すると、設計者はヤン・ヨセフ・スワガー(JAN・JOSEF・SYAGR)(1885~1969)というチェコ人。
彼は1923年に来日。同じチェコ人の建築家アントニオ・レーモンドの下で約6年間働いた。その後、彼は独立。
「横浜市山手町46番地」に事務所を構え、数多くの作品を残した。
著名なものとしては、東京赤坂のカナダ大使公邸、聖路加国際病院、北海道の当別トラピスト修道院、カトリック山手教会(1933年)。

彼ヤン・ヨセフ・スワガーと「山手町」しかも「東部」との関係がはっきりしたので、彼についても色々想像を加えてみたくなった。老生の偏見をお聞き願いたい。
カトリック山手教会の御聖堂に入り、正面の祭壇に向かって右側2番目のステンドグラス。
この1枚のステンドグラスだけがプラハの有名なカレル橋とチェコが生んだ「聖人ヤン・ネポムツク」が描かれているが、設計士ヤン・ヨセフ・スワガーが記念として残したものであろう。
「聖人ヤン・ネポムツク」は、信者の告白の秘密を、一命を賭して守り抜いた聖人。
チェコの誇りとする一人。したがって、チェコ人である設計者がその足跡を残すために、カレル橋と「聖人ヤン・ネポムツク」を選んだのに何の不思議もない。

しかし老生の偏見は、素直にそうは思わせない。彼の本心は「ヤン・フス」を選びたかったのでは?「無難」に妥協せざるを得なかった惨めさ。
理由は2つある。
第一は、プラハの旧市街の中心広場に、チェコ人の誇りとして偉大な姿を残す「ヤン・フス」の巨大な像に対する印象が非常に強い事。
第二に、我々日本人には想像もつかないチェコ人の頑固さを知っているから。
チェコは周辺諸国から度重なる侵略を受けた悲しい歴史を持つ。
しかし、彼等は誇りを失わず、自らの言葉や文化を守り抜いてきた。
「プラハの春」と呼ばれる民衆の解放運動をソ連軍の戦車によって挫折させられながらも、僅か20年後100万人の市民運動「ビロード革命」を無血で成功させた。
彼等の頑固さはこの様にして育てられてきた。この頑固さは、簡単に失われるものではない。
しかし、日本に来てからの彼の作品は「特別な拘りは見受けられない」「施主の希望を最大限取り入れている」と評価されている。
遠く極東の日本に来て、文化習慣の違いに戸惑いながら事業のために頑張っていたチェコ人。彼にとって日本の生活が、どの様な苦しさをもたらしたのか想像も出来ない。
彼の作品に対する評判にしても、老生が知るチェコ人の頑固さは感じられない。
「最大限の妥協」が毎夜の彼の眠りを妨げたであろう。
一方、仮に設計者がその足跡として、あのステンドグラスに「ヤン・フス」を残そうとしたら、カトリック山手教会がそれを許したであろうか?
ヤン・スフそしてマルチン・ルーテルの反抗から数百年、カトリック教は反省を繰り返しながら今日に至っているのだが。
1940年代、世界各地で紛争が起こり、日本も不穏な空気が流れ始めた頃、彼は南米に旅立った。彼の地でも教会関係の設計をしていたと聞く。残念ながら、どの様に人生を閉じたのかは分からない。カトリック山手教会に残したステンドグラスの事をどのように思い出していただろうか?

ところで「山手町46番地」は現在どうなっているだろうか。散歩がてら訪ねてみる事にした。
山手本通り(バス道路)を代官坂上から山手カトリック教会に向かって、2分程歩くと右側にフェリス女学院の中・高等部の正門がある。そのちょうどバス通りの筋向い一帯が「山手町46番地」。何のことはない、日曜礼拝の往復に通っていた所。
現存している数軒の建物は当時の物とは思えないが、多少の名残があるのかもしれない。