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横浜山手東部ってどんな所?

ペリー艦隊乗組員波乱の生涯

山手在住30年 山手東部町内会長 2班C
山手在住30年 山手東部町内会長 2班C

斉藤秋造

昭和60年、元町公園の満開の桜が我が家の庭に降り注ぐ頃に、私は山手町 75 番地の住民になりました。この町は、幕末から明治中頃まで日本人オフリミットの外国人居留地でしたから、此処に一体誰が住んでいたのかとの興味が湧いて調べると、果たして米国人ジョナサン・ゴーブルというキリスト教伝道師に行き当たったのです。ゴーブルの波乱万丈の生涯を、多くの方々に知っていただきたいと思います。彼は 1827 年、ニューヨーク州の片田舎に生まれ、人一倍腕白な少年でした。粗暴な性格が禍して、人を脅迫した罪で 20 歳前後の 2 年間、刑務所暮らしを余儀なくされるのですが、服役中に改心し、将来は遠い国でキリスト教の伝道に携わるという霊感を感じました。


Jonathan Goble 1827.3.4~1896.5.1
Jonathan Goble 1827.3.4~1896.5.1

彼に千載一遇のチャンスが訪れます。ペリー艦隊の日本遠征です。 志願兵として採用されて1853 年浦賀沖へ、翌年には横浜村で日米和親条約締結に立ち会います。この時に、外国人墓地埋葬第一号となる水兵の葬儀にも選ばれて参列しました。まさか10 数年後に、愛娘と愛妻を同じ墓地に埋葬することになるとは、独身のゴーブルには思いもよらず、運命の悪戯としか言いようが有りません。 帰国後は神学校に通い伝道師の資格を取り、結婚して娘を授かりました。一方で、自分を宣教師として日本に派遣するようバプテスト本部に執拗に頼み込み、根負けした会派から、渡航費も滞在費も自己負担という厳しい条件で許可されます。 横浜開港半年後の1860 年、家族を伴ったゴーブルは、ペリー艦隊乗組員1900 名の先陣を切って横浜に再上陸します。服役中に覚えた大工仕事・靴修理や妻のミシン内職で辛うじて生計を立てる中、愛娘を流行りのコレラで亡くし、夫妻は悲嘆にくれます。やがて山手居留地75 番に居を構えた彼は聖書の日本語訳に心血を注ぎ、遂に日本初の翻訳聖書「マタイ伝」を完成させますが、未だキリシタン禁制が解かれておらず発禁処分となります。

この頃、彼の粗暴な性格から妻や書生を殴りつけたという噂が本国に伝わり、会派からの絶縁状が届きます。一匹狼となったゴーブルは神の恵みを振り巻き、多くの人々に洗礼を授けますが、それを承認する機関も無く、彼の強引な伝道に他の宣教師たちは困り果てたそうです。その後夫を助け、聖書販売の全国行脚など苦楽を共にした妻も遂に病に倒れ、46 歳の5 月1 日にこの世を去り、外国人墓地の娘の墓の隣に葬られました。

妻に先立たれたゴーブルの奇行が目立つようになり、辻説法では群衆と喧嘩して警察の世話になるのが常でした。傷心の彼は翌年に帰国を決意し、アメリカ中を放浪した後で、セントルイスのバプテスト療養所で69 歳、波乱の生涯を閉じました。

墓石も無く、墓地台帳には5 月1日と記されていて、奇しくも妻の命日と同じでした。

日本では異端児呼ばわりされ続けたゴーブルでしたが、彼を支えたアメリカ人の開拓者魂と、日本キリスト教史に残した足跡は、正しく評価されるべきものだと思います。