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横浜山手東部ってどんな所?

 横浜山手町の歩み

横浜村井近傍の図 
横浜村井近傍の図 

その① 外国人居留地時代

「100戸足らず半農半漁の寒村」と言われ、砂州の上に出来た小さな半島の横浜村。その付け根に位置する海抜40m程の丘陵地(山手)は、ペリー艦隊の日本遠征が無ければ、もう暫くは「安政の眠り」に浸れたはずでした。

 1859(安政6)年の横浜開港で、丘の麓が騒々しくなりました。開港3年後に起きた世に名高い「生麦事件」をきっかけに、居留民を守るという名目で、英仏両軍の駐屯兵1000名余りが、半ば強制的に上陸して山手斜面谷戸坂辺りに陣を張りました。

 更に1867(慶応3)年には、貿易の拡大で居留地が手狭になった外国人たちは幕府に圧力をかけ、背後の丘陵地約25万坪(現在の山手町)を外国人住居専用の居留地とする永代借地権を獲得しました。周囲の斜面に「居留地堺」の石柱を埋め込み、日本人オフリミットの小さなヨーロッパ・アメリカが出現したのです。

 切り立った崖に囲まれたこの地を、彼らは「ブラフ」と呼び、思い思いに、お国自慢の邸宅を建てました。自力で洋式公園を造り、小劇場「ゲーテ座」建てました。更に、ビール工場を建設して、異国の地での生活をエンジョイしました。宣教師たちの手によるミッションスクールが次々と開校され、聳え立つキリスト教会が幾つも出来ました。インドから苗を取り寄せたヒマラヤ杉がすくすくと育ちました。

1875(明治8)年に駐屯兵が撤退しました。その後、1899(明治32)年に条約が改正されて居留地は撤廃され、山手の丘に日本人も住めるようになりました(内地雑居)。

その② エキゾチシズムの凝縮した時代

 1923(大正12)年、突如襲った関東大震災で山手西洋館群は全て崩壊しました。僅かに残されたのは、外国人墓地の墓標と「ブラフ積」の石垣、そして町を貫く尾根道(山手本通り)と、山手の丘と周辺の町々を結ぶ幾筋かの坂道だけでした。震災のガレキは海に運ばれ埋め立てられて、1930(昭和5)年に「山下公園」が完成しました。同じ年に「元町公園」も開園しました。

 昭和の初め、日本は満州事変を起こし(昭和6年)、国際連盟を脱退(昭和8年)するなど、国中に外国人排斥の機運が高まっていました。居心地の悪くなった各地の外国人たちは、未だ自由を謳歌する雰囲気の残っている横浜へ次々と転居してきました。山手界隈は活気を取り戻し、居留地時代の再現を彷彿させるように外国人で溢れていました。山手町は戦前のエキゾチシズムを凝縮した町でした。

 1941(昭和16)年、日本は太平洋戦争の泥沼に突入しました。終戦直前の1945(昭和20)年5月29日の横浜大空襲では、幸い山手町の被害は最小限に留まり、樹木や昭和初期に建てられた西洋館群などは難を逃れましたが、ヒマラヤ杉の多くは戦時中に、木炭車の燃料として伐採されてしまいました。

その③ 戦後の変遷

 戦後は10年以上にわたり、占領軍に町の大半を接収されましたが、解除後は閑静な住宅地として復活しました。1964(昭和36)年に「港の見える丘公園」が開園しました。この頃からの建設ブームで、戦前には見られなかった鉄筋コンクリートのマンションが建ち始めました。環境破壊を避けたい住民と横浜市は、1972(昭和47)年に「山手地区景観風致保全要綱」を制定し、建ぺい率・容積率と高さに制限を加えました。山手町全域を風致地区に指定しました。

 1986(昭和61)年、建設省が、開港当時の面影を残す山手本通りを「日本の道100選」に選びました。この頃「港の見える丘公園」地下に、観光客用150台の大型駐車場建設計画が、市の緑政局により明らかにされました。ところが、「住宅地・文教地区の山手町に大駐車場はそぐわない」という住民の声に押されて、この計画は頓挫しました。この問題を受けて1992(平成4)年に、町民有志により「山手まちづくり協議会」が発足しました。

その④ 現代そして未来へ

 2001(平成13)年に、100年の伝統校「セントジョセフ・カレッジ」が廃校となりました。その跡地に高層マンション建設計画が発表されたことが契機となって、山手東部町内会・山手西部自治会などにより「山手まちづくり推進会議」が組織され、「山手まちづくり憲章」「山手まちづくり協定」が、住民との間で結ばれました。

 2004(平成16)年、みなとみらい(MM)線が開通し、「元町・中華街駅」が誕生しました。その屋上に、日本初の立体公園として「アメリカ山公園」が開園しました。同年に、日本最古の洋式公園として、「山手公園」が「日本の名勝」の指定を受けました。

 2014(平成26)年、港の見える丘公園に隣接する税関宿舎跡地の一部1000㎡(国有地)が、地元の要請を受けて「ブラフ99ガーデン」として開園しました。残りの2000㎡についても、広く横浜市民・地元民による署名嘆願書が功を奏して、国有地の横浜市への譲渡が決まり、丘公園と外国人墓地を結ぶグリーンベルトが間もなく実現いたします。

 2016(平成28)年、従来の「山手まちづくり推進会議」に代わる「山手東部環境保全委員会」が、山手東部町内会の傘下に設立されました。

(斉藤秋造)